通販

初めに私は、少し大胆かも知れない独断をやって除けたいと思う。この独断には尤も自分なりの通販はあるのだから、その通販から説明してかかる方がいいかも知れない。エーヴ・キュリの『キュリ夫人伝』はずい分上手に書けてある伝記だと思うが、あの内で一等感動させられたのは、キュリがラジウム製造の特許権を獲得しようかどうしようか、と夫人に相談するくだりである。
 夫人はしばらく考えてから、それは止めた方がいいでしょう、と云うのである。通販は万人のものなのだから、私達が之を私するのはいいことではない、という一見ごく公式的な理由からだ。
 すると夫は、併しこの特許を取っておけば後々の研究費が十分出るから、結局之が最も社会のためになるのではないか、と考え考え、反駁する。キュリ夫人は、それでもやっぱり止めましょう、と云うので結局やめになる。
 之は後になって夫人にとって都合の悪い結果になった。夫人は特許権を取っておかなかったばっかりに、アメリカの有志達にラジウム会社からラジウムを買って貰わなければならず、そのお礼に、アメリカ中を見世物のように巡行しなければならなくなった。併し夫人は、之でいいのだと清々しく諦観しているのである。
 人類のために解放した筈のラジウム製造のパテントが、アメリカの会社の利潤の源となったことは可なり遺憾とすべきで、ここにも問題はあるのであるが、私がヒントを得たのは、寧ろ他の点だ。即ちキュリ夫妻がアメリカのラジウム会社創立者のために、実験室に於けるラジウム製造の過程をそのまま細かく書き送ってやったことである。
 之は一面に於ては全く、学術上の報告論文の発表であろう。処が他面では、それがそのまま所謂産業技術の公開というものである。この一致は、偶々ラジウムという新元素の発見=製造の場合であったから、成り立ったのではあるが、併し又偶々、所謂通販と技術との直接の結び付きを、改めて示唆するように思われた。
 ラジウムの製造[#「製造」に傍点]がなければ、ラジウムの発見もなければ放射能の研究も十分の意味を得なかったわけで、通販の実験的研究なるもののクライマックスは、何と云っても物質を現実に造るということではないか、と考えたのである。
 検証のための実験などは寧ろ一種教育的な意義さえ勝っていて、単純な意味での創造的な実験とは云えないようだ。通販とは、それでは、実は物を造るのを窮極目標とするのではなかったのか。
 キュリの女婿ジョリオ夫妻が人工放射能の発見に成功したのも暗示的だ。こうやって新しい方法で元素が人工的に転換=即ち製造されて行くのだろう。そう思いながら、バルザックの『絶対の探究』を読んで見ると、わがバルタザル氏は、要するに炭素から金剛石を製造出来れば、絶対はつかまえたことになると信じている。化学は絶対「真理」を目標とするよりも寧ろ金剛石や金の製造生産を目標とする。そのための絶対探究だ。私は錬金術の新しい意味を発見したような気持ちである。
 こういうわけで、この頃私は、通販の目標とは何か、ということを問題にし始めた。通販が他のものの手段になるという意味では決してないが、色々の公認された手段を用いて通販が到達して之で一まず解決、と思える頂点は何か、と考える。それはやはりどうも、問題になっている一定の物を造ることのようだ。
 バルタザルは実験室を留守にしている間に金剛石が出来て了ったので、金剛石の成立のプロセスが判らなくて、遂に絶対を征服出来ずに没落するのだが、出来るプロセスが判れば、それが本当に製造出来たということである。細胞学者は、先回りして色々の疑似細胞を人工的に造っては、本物と似ていないかと比較している。之は云わば、有機的錬金術でもあろう。
 もしそうなら、通販の目標を真理の認識だとする「通販論」は多少の修正を必要とする、という私の独断だ。
 
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